諸国を行き交う野菜の種 ~江戸時代に盛んになった種の移動~
目次
日本に渡来した野菜たちは、長い歴史の中で各地に広がっていきました。その中でも、特に多くの野菜の種が移動したのが江戸時代であったと考えられます。ここでは、江戸時代に野菜の種がどのように移動したかを垣間見てみたいと思います。
参勤交代が及ぼした影響
徳川家康が江戸に幕府を開いた1603(慶長8)年から徳川慶喜が大政奉還をした1867(慶応3)年までの260年間を江戸時代と呼んでおり、現在の東京である江戸がおおいに栄えた時代です。 この江戸時代の初期1635(寛永12)年に、江戸幕府の第三代目将軍の徳川家光が「武家諸法度(ぶけしょはっと)」に明記し、参勤交代(さんきんこうたい)が制度化されました。当初は外様(とざま)大名だけが対象でしたが、7年後の1642(寛永19)年には、譜代(ふだい)大名にまで拡大されました。ただし、参勤自体は、それ以前から自発的に行われていました。
参勤交代は、諸大名を一定期間江戸に住まわせるという制度で、原則として大名を1年交替で江戸と国もと(領地)に住まわせ、その妻子は常時、江戸に住まわせました。この制度は大名にとって大きな経済的負担となり、また、妻子を人質にとられているようなものだったため幕府に対する反乱を防ぐことが目的だったと考えられてきました。 しかし、近年では「主従関係の確認」が目的だったという説が有力になっています。ただし、結果的には各藩の財政は厳しくなり、軍事力を低下させざるを得ない状態になったことは間違いありません。それゆえに内乱も無く、長きにわたる平和な時代になったとも言えます。
インフラ整備で人流増加
参勤交代の制度は幕府だけでなく全国各地にも様々な影響をもたらしました。 江戸へ行くための国内の街道や宿場町の整備が行われ、これに伴い諸国産物が流通し、京・大阪・江戸の三都を中核とする市場の形成が進みました。
海運も盛んになり、1639(寛永16)年には、加賀藩が兵庫の北風家(きたかぜけ)の助けを得て、西廻り航路で100石の米を大坂へ送ることに成功させました。 その後、北前船(きたまえぶね)などの海運が発展し、遠方の人々との交流により、物流のみならず、思想・文化の伝播などもありました。北前船は、江戸時代から明治時代にかけ、大阪から下関を経て北海道に至る「西廻り」航路に従事した日本海側に船籍を持つ海運船です。
行き来が盛んになった諸国の種
これに伴って、数々の野菜品種の種子も多く流通しました。参勤交代の藩主の命による種の献上(けんじょう)や持ち帰りだけでなく、随伴者(ずいはんしゃ)や行商人(ぎょうしょうにん)などによる流通もありました。 旧:中山道(なかせんどう)を通る旅人は、街道沿いの農家で見慣れない野菜を見かけると種子を求めるため、農家は副業で種子を販売し、やがては種を扱う種子屋となりました。
東京の巣鴨(すがも)から滝野川三軒家(たきのがわさんけんや)と板橋区清水町に続く街道沿いには、多くの種子問屋や小売店が並び、「種子屋街道(たねやかいどう)」と呼ばれました。同地区の種子屋の元祖は、枡(ます)屋をしていたので桝屋孫八(ますやまごはち)とも呼ばれる「榎本孫八(えのもとまごはち)」、「越部半右衛門(こしべはんえもん)」「榎本重左衛門(えのもとじゅうざえもん)」の三軒で、「滝乃川三軒家(たきのがわさんげんや)」の由来だそうです。1643(寛永20)年に、長野県諏訪(すわ)の行商人が榎本種苗店に仕入れに来たという記録も残っています。
参勤交代に使われた東海道(とうかいどう)、中山道(なかせんどう)、甲州街道(こうしゅうかいどう)、日光街道(にっこうかいどう)、奥州街道(おうしゅうかいどう)の五街道の宿場には、こうした種子屋が店を開き、今でも種苗店として残っている会社がいくつかあります。
参勤交代によって人々の往来が増えるにつれ、行きは国元の野菜の種を江戸に持ち込み、戻りは江戸で入手した他地域の種を持ち帰る者や行商人たちのおかげで、種の流通も一挙に拡大し、全国にさまざまな品種が広がっていきました。今に残る伝統野菜にも、江戸時代に移動したとされる由来が比較的明らかな品種がいくつかあります。
参勤交代などで江戸時代に移動した種
江戸時代に移動し、その手段の記録が明らかな伝統野菜をいくつかご紹介します。
大野紅かぶ(おおのべにかぶ)@北海道
「大野紅かぶ」は、江戸時代に日本海側を北海道から大阪まで往復していた北前船(きたまえぶね)によって北海道にもたらされた蕪(かぶ)です。函館市近郊の大野町(現:北斗市)で栽培されていたため「大野紅(あか)かぶ」と称され、広く知られています。大野紅かぶは、滋賀県の地域野菜である「蛭口(ひるぐち)かぶ」や「万木(ゆるぎ)かぶ」などと同系といわれています。現在、函館市や北斗市で広く赤かぶの生産が行われていますが、「大野紅かぶ」と確認できる系統は、種苗会社が、戦後に道南で入手した種子を今日まで採種・販売している系統のみだそうです。
みんなの農業広場「大野紅かぶ」-北前船で伝播された道南の伝統野菜
畑なす(はたなす)@山形県
「畑なす(はたなす)」は、北前船による海運が盛んになった頃に、最上川(もがみがわ)を行き来していた川船(かわぶね)によって種が持ち込まれた品種だそうです。北前船は日本海側を北海道から大阪まで往復していた船のことで、一般的には、材木商で財をなした河村瑞賢(かわむらずいけん)という人が、第四代将軍家綱(いえつな)の後半時期である1672(寛文12)年に、現:山形県である庄内地方の幕府の領地 から江戸などに運ばれる御城米(ごじょうまい)と呼ばれる年貢米を大阪経由で江戸まで運んだ「西廻り航路(にしまわりこうろ)」の船のことを言います。
仙台芭蕉菜(せんだいばしょうな)@宮城県
「仙台芭蕉菜」は、小松菜の葉を大きくしたような青菜です。仙台藩の足軽が参勤交代の際に、江戸の「三河島菜(みかわじまな)」を持ち帰ったものとされます。三河島菜は、荒川区の三河島で栽培されていましたが、昭和初期に絶滅しました。しかし、「仙台芭蕉菜」が子孫種(しそんしゅ)であることが発見されたことで、その子孫種から再び東京の三河島地区での栽培を行う復活プロジェクトが進められています。
練馬大根(ねりまだいこん)@東京都
「練馬大根」は白首系の大根で、江戸元禄期以前に現在の名古屋市がある尾張地区の「方領大根(ほうりょうだいこん)」が伝わったものだとされます。元禄時代、江戸の人口が増加するにつれ、野菜の需要量も増え、その供給地として練馬地区の大根の栽培が盛んになり、「大根の練馬か、練馬の大根か」と言われるほどに名をはせました。方領大根から育成された「練馬大根」の系統は、練馬尻細大根(たくあん漬用)と練馬秋づまり大根(煮物用)に分かれます。
砂村一本ねぎ(すなむらいっぽんねぎ)@東京都
「砂村一本ねぎ」は、天正年間(1573〜1592)に、今の大阪である摂津(せっつ)から今の江東区北砂・南砂の砂村(すなむら)や品川(しながわ)などに持ち込まれました。さらに江戸時代に、砂村から千住(せんじゅ)に伝わり、「千住一本ねぎ」となりました。いずれも江戸東京野菜に認定されている在来種です。ちなみに関西ではネギの青い部分を、関東は白い部分を食べます。一本ネギは白い部分の多い根深(ねぶか)ネギです。
加賀れんこん(かがれんこん)@石川県
「加賀れんこん」は、加賀藩(かがはん)五代藩主の前田綱紀(まえだ つなのり)が参勤交代時に美濃国(現:岐阜県)から持ち帰った苗を金沢城(かなざわじょう)内に植えたのが始まりと伝えられています。城中(じょうちゅう)で栽培され、「ハスノ根(はすのね)」として上層武士の間で薬用として提供されていたといわれています。その後、金沢市大樋町(おおひまち)一帯(小坂地区)で栽培されるようになり、「大樋蓮根(おおひれんこん)」と呼ばれるようになり、その後「小坂れんこん」となり、現在は金沢近郊で栽培されるものも含め「加賀れんこん」と称されています。
聖護院大根(しょうごいんだいこん)@京都府
「聖護院大根」は、長さが短く球形でカブと見紛うような大根です。文政年間(1816~1830)に、尾張国(おわりのくに)から現:京都市左京区黒谷町にある金戒光明寺(こんかいこうみょうじ)に奉納された宮重(みやしげ)大根を、現:左京区聖護院に住む農家が譲り受けたものとされます。宮重大根は多くの大根の原種となっている品種で、現在、愛知県の伝統野菜に認定されています。別の農家が取り寄せたという説もありますが、いずれも原種は宮重大根とされます。宮重大根は長大根ですが、聖護院の土地で選抜を繰り返すうちに短系の大根が生まれ、それが畑の柔らかい土の部分である作土層(さくどそう)が浅い京都の土地に合い、一帯に栽培が広がったといわれています。
紀州(きしゅう)白だいこん@和歌山県
「紀州白だいこん」は、江戸の白首大根種を参勤交代の際に持ち帰ったものとされます。和歌山市周辺から紀ノ川(きのかわ)流域で栽培されていますが、現在は減少傾向にあります。「和歌山(わかやま)だいこん」とも呼ばれ、紀ノ川漬けに使用されています。「紀州白だいこん」の栽培量は減少しつつありますが、優良系統の育種素材として新品種の育成に使われています。
津田かぶ(つだかぶ)@島根県
「津田かぶ」は、勾玉(まがたま)状の赤カブで、1638(寛永15)年に出雲(いづも)松江(まつえ)藩の初代藩主として加増移封(かぞういほう)された松平直政(まつだいらなおまさ)公の時代から栽培されてきました。元々は「日野菜かぶ」という滋賀県日野町で江戸時代から栽培されていた尻細の長カブが原種となっていて、参勤交代の際に松江に持ち込まれたとされます。その後、江戸時代末期に津田村 (現:松江市津田地区) の立原紋兵衛(たちはらもんべえ)という篤農家(とくのうか)によって品種改良されました。当初は「紋兵衛 (もんべえ) かぶ」と呼ばれていましたが、後に栽培地名から名付けた「津田かぶ」という名称に変わりました。
広島菜(ひろしまな)@広島県
「広島菜」は、日本三大漬け菜として、「高菜(たかな)」「野沢菜(のざわな)」と並ぶ漬け菜です。豊臣秀吉が没する頃の1597(慶長2)年に導入されたという説と、江戸時代に藩主の参勤交代に随行した安芸国(あきのくに)観音村(かんのんむら)(現:広島市西区観音)の住人が、帰路に京都本願寺(ほんがんじ)に参詣(さんけい)し、そこで種子を入手し、帰郷後に栽培を始めたという説があります。秀吉の時代にも「参覲(さんきん)」という参勤交代の原型があったので、両方の説が有り得えます。京都から伝来したため、今でも昔を知る人たちは、「京菜(きょうな)」と読んだり、平たい茎の形状から「平茎(ひらくき)」と呼んだりしています。
伊予緋かぶ(いよひかぶ)@愛媛県
「伊予緋かぶ」は表皮と茎が赤いカブです。江戸時代初期の1627(寛永4)年、松山藩二代目藩主として転封(てんぽう)された蒲生忠知(がもうただとも)が、故郷の近江国(現・滋賀県)の「日野菜かぶ」を懐かしんで取り寄せたのが起源とする説があります。松山城の天守閣が見える場所でないと栽培できないとか、日招(ひまねき)八幡神社の太鼓(たいこ)の音の聞こえる地域でないと生育しないなどと言われ、栽培地域が限られ、藩主の手厚い保護と改良を受け、現在の伊予独特の「緋かぶ」になったそうです。「伊予緋かぶ」は、正岡子規(まさおかしき)が俳句に詠(よ)んだり、伊予節(いよぶし)にも唄(うた)われたりしており、地元では名が知られています。
伝統野菜を通して知る歴史
以上は、ほんの一部の品種であり、伝来の記録が残っていない野菜も数多くあります。自分の地域の伝統野菜の由来を辿ってみるとおもしろいかもしれませんね。
ちなみに、沢庵和尚(たくあんおしょう)が大根の種を参勤交代の大名に渡していたという説もあります。 また、愛知県の伝統野菜に「青大きゅうり」がありますが、広島県にも「青大きゅうり」があります。普通のきゅうりの3倍ほど大きくなる品種で、見た目の大きさや太さは両方とてもよく似ています。由来は、愛知では戦前から、広島では大正時代から栽培されていたという漠然としたものですが、この二県は、福山藩成立当時に尾張・三河地方からの移住者が多くおり、歴史的にもつながりがあるので、もしかしたら、種子は、もっと昔に移動していたかもしれませんね。
いずれも栽培農家は数件しかない希少な品種ですが、なんとか後世に引き継いで欲しいものです。 皆さんも地域の伝統野菜の起源を調べてみるとおもしろい発見があるかもしれませんよ。
【参考資料】
京都府教育委員会「誤解されている『参勤交代』」
地域の野菜生産に貢献する 種苗会社
JA東京中央会「東京農業歴史めぐり」
独立行政法人 農畜産業振興機構「地だいこんの遺伝資源としての価値と全国の地だいこん」
関西大学なにわ・大阪文化遺産学研究センター「なにわ伝統野菜V.S. 京野菜」P23より
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