昔懐かしい味と香りのトマトが50年ぶりに復活 ~福岡県筑紫野市「宝満(ほうまん)とまと」~
昭和の中頃の1970年頃までは、夏の夕餉に冷やしたトマトスライス、枝豆、ビールを飲食しながら野球中継を見るというのが定番だった気がします。その頃のトマトは、いったいどこへ行ってしまったのでしょう?
今回は、そんな懐かしい味と香りのする「宝満トマト」の復活をトマトの歴史とともにご紹介します。
トマトは観賞用だった⁉
トマトが日本に伝わったのは古く、17世紀なかばとされています。当初は鑑賞用として珍重されており、江戸時代初期の絵師、狩野探幽(かのうたんゆう)が、1668年に「唐(とう)なすび」と称してトマトを描いたスケッチ1)を残しています。
また、1709年には本草学者・儒学者の貝原益軒(かいばらえきけん)が著書『大和本草(やまとほんぞう)』で、「唐がき」と称してトマトを紹介しています。2) ※「唐柿」は「無花果(いちじく)」の別名で使用されることもあります。
食用として利用されるようになったのは明治時代に入ってからですが、明治から大正期の主要品種はほとんどが赤色系トマトでした。しかし、当時の赤色系トマトは酸味や匂いが強かったため、日本人にはあまり好まれなかったようです。
トマトの日本定着は昭和初期
日本の食生活にトマトが定着し始めたのは昭和に入ってからで、アメリカから「ポンデローザ」という臭みの少ないピンク(桃色)系の品種が導入されてからとのことです。3)
現在、あいちの伝統野菜に認定されているファーストトマトは、明治時代にアメリカから渡来したこのポンデローザから育種され、愛知県豊橋市で1938(昭和13)年に誕生したとされます。そのファーストトマトも昭和の後半までは多く作られていましたが、1985(昭和60)年頃から品種改良された丸玉トマトの普及に伴い生産者が減少していきました。
今では、さまざまな品種が育成され、日本で品種登録されているものだけでも300種類を超えるほどの数があります。
昔懐かしいトマトが復活
海外では、今でも赤系大玉トマトが主流ですが、日本ではフルーツ系やミニトマトが人気です。かつてのような味と香りが濃く、酸味の効いたトマトは、もう食べられないのかなと残念に思っていたところ、なんと、昔ながらの赤系大玉トマトが50年ぶりに復活したいうニュースをみつけました。
復活させたのは、福岡県筑紫野市(ちくしのし)の北東にそびえる宝満山(ほうまんざん)の麓(ふもと)の本道寺(ほんどうじ)地区の3農家です。
同地区は中山間地域にあり、かつてはトマト栽培が盛んだった産地で、1967(昭和42)年の福岡県の資料「福岡の園芸」には、同地区を含む御笠村(みかさむら、現:筑紫野市)でのトマト栽培について記されています。
栽培復活の動きは、2018(平成30)年度に現在の「宝満とまと出荷組合」の一人が「消えた産地を復興させたい」と地区内に呼びかけたのが始まりだそうです。2戸が参加し計3戸が、県の園芸産地化の補助事業を活用して栽培を開始しました。
復活の立役者は農業未経験
現在、「宝満とまと」は、平嶋勝則さん・友子さんご夫妻と2戸の農家で栽培されています。
驚くのは、いずれのメンバーもトマト生産していた景色の記憶はあるものの、実際の栽培経験はなかったことです。栽培経験はないものの産地の再建を決意し、勉強会を開いたり、JAの営農指導を受けたりしながら技術を積み、3年目には生産を安定させました。
現在は、組合で計30アールの面積で栽培しています。出荷時期には、多い日で300㎏を出荷するに至り、本道寺地区にトマト栽培の風景をよみがえらせました。
出荷期間は5月~12月。間もなく、今年度の出荷が始まります。平嶋さんは「子どもの頃に食べた瑞々しく濃厚な味のトマトを追求している」とのことで、しっかりと完熟させ味の乗った完熟出荷にこだわっているため、出荷先はJA筑紫の農産物直売所「ゆめ畑」5店舗や地元小売店の直売コーナーに限定しています。
今では、なかなか味わえない昔ながらの味を持つ「宝満トマト」。これから真のトマト好きを魅了しそうです。出荷期間は長いので、筑紫を訪れることがあったら、ぜひ、味わってみてください。
【参考資料】
1)東京国立博物館「草花写生図巻」
2)農水産省「トマトまるごとまるわかり!」
3)農研機構「今が旬のトマトのお話」
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